中編では、人生の幸福は、長さではなく“密度”で決まる、ということをまとめました。
死を考えることは、決して絶望や恐怖に触れることではありません。
私にとって、死は“敵”ではなく、“帰る場所”のような存在です。
これまで一番長く考えてきたことであり、意識すればするほど、“いま生きていること”がより明確に認識されます。
最後に、「自分の意思で終わりを選べることの尊厳」について考えてみたいと思います。
“生き延びる”ことよりも“生ききる”ことを選びたいという私自身の想い、そして、死を受け入れることでいまの時間をどう確かに感じているのか。
それらを通して、「死を見つめることは、生きる自由を取り戻すこと」という私の考えを整理してみたいと思います。
自分の寿命を暫定的に定めている理由
20歳の頃、私は「人生の命題」を立てました。
その中には、ひとつの仮定として“自分の寿命を暫定的に定める”という考えが含まれています。
もちろん、それは運命を決めつけるようなものではありません。
けれど、人はいつか必ず終わりを迎えるという事実のもとで、その“おおよその長さ”を意識して生きることは、
時間の輪郭をくっきりとさせ、日々の選択を明確にしてくれるように感じます。
私にとってそれは、“死の予告”ではなく、“生の設計”です。
限りがあるからこそ、いまを濃く生きようと思える。
終わりの形を仮にでも思い描くことで、「何を残したいか」「何を優先するか」という基準が整えられます。
超長寿リスクを想定しない理由
セミリタイアの計画において、私は「超長寿リスク」をあまり考慮していません。
もちろん、長生きすること自体を否定しているわけではありません。
ただ、長く生きることが必ずしも“幸せの延長”になるとは思っていないのです。
むしろ、寿命が大きく延びるほど、体や心の自由が徐々に失われ、幸福の“濃度”が薄まっていくように感じます。
その中で、ただ“生き続ける”ことが目的化してしまうと、かえって「生を生きる自由」を損ねてしまうのではないでしょうか。
私のセミリタイア計画は、その“自由を保つための設計”でもあります。
だからこそ、必要以上に長い未来を見据えるのではなく、「生ききるための時間」を想定して計画を立てています。
限りある時間の中で、自分の意思で生き方を選び、そして静かに幕を下ろす――それで十分だと思っています。
死を受け入れる自由とは
「生きる」ということは、多くの場合、社会や周囲の価値観によって支えられています。
それは悪いことではありませんが、ときに“生き続けなければならない”という無意識の義務感を生み出してしまうようにも感じます。
私は、そうした義務から少し距離を取りたいと思っています。
死を拒むことを前提とした社会の中で、“死を受け入れる自由”を取り戻すということ。
それは、決して死を軽んじることではなく、むしろ、いまを真剣に生きようとする姿勢そのものだと感じます。
「生き延びる」は命をつなぐことであり、「生ききる」は生を全うすること。
この二つは、言葉は似ていても、その本質はまったく違うと感じています。
「生き延びる」より「生ききる」。
それは、終わりを恐れないことで、いまの時間をより確かなものとして感じ取るということ。
人生の終止線を自分の意思で描くことは、生をより主体的に生きるための選択でもあります。
死を見つめることは、生きる自由を取り戻すこと
死を避けようとすることが、人としての“正しさ”とされる時代に生きています。
けれど私は、死を恐れず、受け入れるという選択の中にこそ、本当の意味での自由があるのではないかと感じています。
死を見つめるというのは、生きることを諦めることではなく、“生きなければならない”という義務感から自分を解放すること。
そこには、静かで穏やかな自由があります。
死を拒まずに受け入れることで、いまという時間はより確かなものとなり、その一瞬一瞬が、自分自身の意思で形づくられていくように思います。
セミリタイアという生き方もまた、そうした“生の自由”を取り戻すための選択のひとつです。
限りある人生の中で、何を選び、どう終えるか。
その答えを探しながら、私は今日も静かに歩みを続けています。

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