健康が揺らぐとき、思考も揺らぐ

考え方・背景

ここ3日ほど、発熱と頭痛で寝込んでいました。
特に頭痛が厄介で、まともに眠ることもできず、食事をとる時以外はほとんど布団の中で過ごしていました。

ようやく今は、おおむね回復しています。
そんな状態ではありましたが、いくつか反省すべき点と気づきがあったため、ここに記録しておこうと思います。

反省①:息子の気持ちを受け取れなかったこと

息子が「お父さん、これ作ったんだけど、元気になったら見てくれる?」と声をかけてきたとき、
本来の私であれば「ありがとう。治ったら必ず見るね。そこに置いておいてくれる?」
と、そのやさしさを受け取ることができたはずでした。

けれど、その時は頭の痛みで余裕がなく、「今は頭が痛くて見られないよ。持ってこないで」という言葉が、ほとんど反射的に出てしまいました。

息子は「元気になったらでいいよ」と前置きまでして、今できないことをちゃんと理解したうえで声をかけてくれていました。
それなのに私は、“なぜ今持ってくるんだ” と自分の苦しさばかりに意識が向いてしまっていました。

「体調が悪い」というだけで、受け取れるはずの優しさを受け取れなくなり、返せるはずの言葉を返せなくなるのだと感じました。

反省②:娘の気遣いをまっすぐ受け取れなかったこと

娘から「携帯を見てると頭痛も治らないよ」と声をかけられたときも、
本来なら「心配してくれてるんだな」と素直に受け止められたはずでした。

けれどその瞬間、私は業務上どうしても対応しなければならない連絡をしていて、余裕のない頭ではその言葉を「行動を否定された」と感じてしまいました。
そのため、思わず「やりたくて触っているわけじゃないよ。余計なことを言わないで」と、娘の思いやりとは反対の方向へ返してしまいました。

娘にしてみれば、“早く治ってほしい”ただそれだけの気持ちで言ってくれたはずです。
ふだんなら気づけるはずの娘のやさしさを、体調ひとつで簡単に取りこぼしてしまいました。

原因は“心の余裕”にあったのだと思う

今回の出来事を振り返ってみると、私が見落としていたのは単に「相手の言葉」ではなく、その言葉を受け取るための “心の余裕” だったように思います。


体調を崩していた時の私は、とにかく痛みに意識が向いていて、思考の幅が狭まっていました。
本来であれば気づけるはずの優しさも、そのまま素直に受け入れられるはずの気遣いも、余裕を失った心ではうまく読み取れませんでした。

さらに、本来の自分からは遠い反応を、まるで“正しい判断”であるかのように感じてしまっていました。
この歪みこそが、余裕を失った状態の怖さなのだと思いました。

体調が悪かった以上に、「自分の思考が歪んでしまっていた」という意味で、静かにショックが大きかった出来事でした。

健康を守ることは、思考を守ること

今回の体調不良を通して気づいたのは、健康を損なうことの影響は、身体の不調だけではないということでした。

頭痛や発熱といった症状は目に見えます。
けれど本当に厄介なのは、自分の思考や判断が、気づかないうちに歪んでしまうことでした。

優しさを素直に受け取れなくなる。
相手の言葉をネガティブに深読みしてしまう。
本来ならしないはずの反応が“当然のもの”のように感じられてしまう。

体調が悪いとき、思考の土台そのものが揺らぐということを、私は今回あらためて思い知らされました。
健康であることは、ただ元気に動けるという意味だけではなく、自分の人格や価値観を正しく保つことでもありました。

言い方が少し変かもしれませんが、“思考を守るために健康を守る” という、当たり前でありながら見落としていた事実を再認識しました。

最後に——

今回の不調のあいだ、家のことも子どものことも支えてくれた妻には、ただただ感謝しています。
自分の余裕がなくなっていた時でも、変わらず穏やかに見守ってくれていたことを、あらためて心強く思いました。

こうした日常の支えに、背中を押されながら生きていることを忘れずにいたいと思います。

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