セミリタイアの話題に触れていると、「暇になって飽きる」という意見を目にすることがあります。
個人の適性による部分はさておき、“暇な時間”と“自由な時間”はまったく別物だと思います。
それぞれの言葉の違いを整理してみることで、セミリタイアの捉え方も少し変わってくるのではないでしょうか。
セミリタイア未経験の身で恐縮ですが、ここに私の考えをまとめておこうと思います。
暇な時間とは
“暇な時間”とは、どんな時間でしょうか。
自分の感覚から整理してみると、そこには受動的なニュアンスが含まれています。
暇な時間は、何もすることがなく、早く過ぎてほしいと願う時間です。
“暇つぶし”という言葉がある時点で、その性質はすでに明らかだとも言えるかもしれません。
- ただ流れていく時間
- 受け身で過ごす時間
- 誰かの予定を待つ時間
- スマホを眺めてやり過ごす時間
“暇”になると、自分ではなく「時間のほうが主導権を握る」ようになります。
だからこそ、暇な時間は長続きしません。
できるだけ短く済ませたい、むしろ早く先に進んでほしいとさえ思う時間なのだと思います。
自由な時間とは
では、自由な時間とはどんな時間でしょうか。
自由な時間には、“受動的なニュアンス”はありません。
代わりにそこには、主体的な選択の余白があります。
「何をしてもいい」は受け身の言葉。
「何かを始められる」は、主体のある言葉。
この感覚の差が、“暇な時間”との大きな違いなのではないかと思います。
- ふと調べてみたくなる
- 何かを試してみようと思える
- 好奇心が働く
- どこかに行きたくなる
自由な時間は、「できれば長く続いてほしい」と思える時間です。
そこには、自分を軸に時間が過ぎる感覚、さらには時間の存在をわすれてしまう瞬間さえあります。
どれだけあっても困る事がない、そんな時間がそこにあります。
それぞれの時間を生み出すのは、自分自身
ここまで整理してみると、“暇になって飽きる”という感覚は、セミリタイアが生むものではなく、自分自身が生むものではないか、というように思えてきます。
セミリタイアをしても、自らの手で能動的な時間を作ることができなければ、本来自由であるはずの時間が、いつのまにか“暇な時間”に姿を変えてしまう可能性があります。
その瞬間、人生そのものが“暇つぶし”になってしまう、そんなリスクすら生まれます。
だからこそ、自由な時間を受け止められる“受け皿” を自分自身でつくっておく必要があると感じています。
- 視野を広げる
- 思考を深める
- 少しずつでも選択肢を育てておく
そうした土台があって初めて、セミリタイアによる“物理的な時間”が、自由な時間として息をし始めるのではないでしょうか。
私は、セミリタイア計画の完遂とは、ただ“時間を増やすこと”だけではなく、“自由な時間が成立する条件を整えること”ではないかと思います。
まとめ
“暇な時間”と“自由な時間”を整理してみると、セミリタイアで手に入るのは、単純に“物理的な時間”であるように思います。
しかし、時間が増えるだけでは、自由な時間は生まれません。
それを受け止める器を自分の中に用意しておいてこそ、初めてセミリタイアの“物理的な時間”が本来の意味を持ち始めるのだと思います。
自由な時間を生み出す準備こそが、私にとってのセミリタイア計画に他ならないのかもしれません。
コメント