子どもは親の傀儡でもアバターでもない

子育て

子育てについて考えるとき、親はどうしても「子どものため」と口にしがちです。
もちろん嘘ではないのですが、その言葉の裏には、自分の経験や未練、理想を子どもに重ねてしまう構造が潜んでいることがあります。

最近、身近な事例からそのことを考えさせられる出来事がありました。
前提として我が家の話ではありませんが、子育てについていくつか感じたことを整理してみます。

親の未練が子どもに投影されるとき

小学生の子どもを持つ家庭のケースです。
その親は子どもの頃に駐在経験があり、日本語補習校へ通っていたものの、事情があって通学を継続できなかったとのことでした。
その影響からか、自分の子どもには補習校を“続けさせたい”という意向が強く、場合によっては本人の意思よりも優先する心づもりようです。

もちろん、親の本音として「子どものため」と思っているのでしょうし、そこに悪意があるわけではありません。
ただ、構造としては自分が子ども時代にやりたかったことや、やり残したことを、子どもに重ねてしまう形になっています。

こういう場面では、親が子どもを通して自分の人生を“塗り直している”ような印象を受けます。
親にとっては当然の行動でも、子ども側からすると、少し重たく感じられるように思います。

子ども側の反応と、“自分で決めたい”という欲求

子ども側の様子を見ていると、補習校に通うこと自体は必ずしも嫌ではないようです。
ただ、通学することで「親の意向に沿っている」という事実が受け入れがたいようで、そこに抵抗感や反抗的な態度が生まれているように見えます。

ちょうど思春期の入り口ということもあり、「自分の行動は自分で決めたい」「親の選択に従うのではなく、自分の意思で動きたい」という感覚は自然なものだと思います。
大人からすれば早い段階に感じられますが、この時期特有の“自意識の目覚め”のようなものです。

ただ、子ども自身が思っているほど、自己完結が簡単ではないのも事実で、そこには年齢による限界や見えていない部分もあります。
いわゆる男子特有の“中二病の初期症状”のようなものでもあり、私自身も通ってきた道です。

「子どものため」という言葉は、ときに本質を曖昧にする

子育ての話をしていると、「子どものために」という言葉がよく使われます。
おそらく、その多くは本心から出ているものですし、悪意ではなく善意として機能しています。
ただこの言葉は便利でもあって、親自身の願望や感情を見えにくくしてしまうことがあります。

人は、自分の行動の動機をきれいに説明したくなるものですが、「子どものため」という言葉は、その過程をすべて省略できてしまいます。
その結果、親自身が何を望んでいるのか、何に不安を感じているのかに自覚的になりにくくなります。

こうした構造は、特に強い干渉やコントロールとして表れるわけではなく、むしろ静かに進行することが多いと感じます。
善意であるがゆえに止めどころが難しく、結果的に子ども側が“重い”と感じる状況につながることがあります。

我が家の考え方

我が家でも、親が子どもの進路や学習にどう関わるかという話題は、それなりに意識しています。
いろいろな家庭や、自分自身の経験を思い返したりする中で、「どこまで介入し、どこから任せるのか」という線引きはとても難しいと感じています。

現時点では、小学生の間はある程度の常識的な行動指針を提示しつつ、基本となる“定石”を理解させることを重視しています。
同時に、選択肢の多様性を示すことで、世界が単線ではないことを少しずつ伝えるようにしています。

中学生以降は、まずは子ども自身の判断に任せる方針です。
成功も失敗も経験させ、その上でどうしても困ったときだけサポートに入る形が良いのではないかと考えています。
ただ、困りごとを抱えていても助けを求めないことが多い年齢でもあるので、親としては“ヘルプを引き出せるコミュニケーション”を意識する必要があると思っています。

子どもは、親の思い通りには動きませんし、動かす必要もありません。
親の役割は“自分の未練の代行者にしないこと”と、“必要なときに助けられる距離にいること”の二つに尽きるのではないかと感じています。

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