最近、「NISA貧乏」という言葉を見かけました。
投資に資金を回しすぎることで、日々の生活に余裕がなくなってしまう状態を指して使われているようです。
その文脈の中では、「今の生活を犠牲にしてまで投資をするのは本当に幸せなのか」という問いかけとセットで語られることが多いように感じました。
確かに、無理をして生活水準を下げているのであれば、どこか本末転倒のようにも思えます。
ただ、この手の話はどうしても極端になりがちです。
「将来のために今を我慢するのは良くない」という意見と、「今を削ってでも将来に備えるべきだ」という意見が、対立する形で語られることが多いように思います。
けれども実際のところは、そのどちらかに割り切れるものではなく、もう少しグラデーションのある話だと思います。
今回は、「NISA貧乏」という言葉をきっかけに、投資と生活のバランスについて、自分なりに整理してみたいと思います。
NISA貧乏という言葉の違和感
「NISA貧乏」という言葉が使われる場面では、多くの場合、「今の生活を犠牲にしてまで投資をしている状態=良くないもの」という前提が置かれているように感じます。
確かに、無理に支出を削り、日々の生活にストレスを感じているのであれば、その状態は長く続かないでしょうし、結果的に良い選択とは言えないかもしれません。
ただ一方で、「どこからが無理なのか」「どの程度を貧乏と感じるのか」は、人によって大きく異なります。
同じ支出水準であっても、ある人にとっては我慢であり、別の人にとっては自然な生活ということも十分にあり得ます。
生活水準や価値観は人それぞれであり、それを一律に「良い・悪い」で判断するのは、少し乱暴な見方のように思います。
また、「今を犠牲にしているかどうか」という点も、外からは判断しにくいものです。
本人が納得して選んでいるのであれば、それは単なる我慢ではなく、将来に向けた選択の一つとも言えます。
こうした前提を踏まえると、「NISA貧乏」という言葉そのものに、やや単純化されすぎた印象を感じてしまいます。
重要なのは持続可能かどうか
「NISA貧乏」という言葉に違和感を覚えるのは、結局のところ、何を基準に良し悪しを判断するのかが曖昧だからだと思います。
私が重要だと考えるのは、「その生活が持続可能かどうか」という点です。
たとえば、日々の生活を大きく切り詰め、無理をしながら投資に資金を回している状態であれば、それは長く続かない可能性が高いです。
どこかで反動が来たり、生活そのものに負担がかかったりするかもしれません。
一方で、現在の生活水準に納得しており、その状態を無理なく続けられているのであれば、それは必ずしも問題とは言えません。
重要なのは、「他人から見てどうか」ではなく、「自分にとって無理のない状態かどうか」、そして「その状態が続けられるかどうか」です。
極端に切り詰めた生活でなければ、投資に回す割合が大きくなったとしても、それは単に優先順位の問題とも言えます。
何に価値を置くかによって、お金の使い方が変わるのは自然なことです。
そう考えると、「NISA貧乏」と呼ばれる状態も、それが持続可能であり、本人が納得しているのであれば、必ずしも否定されるものではないように思えてきます。
幸せの感度という視点
以前の記事でも触れましたが、同じ生活であっても、そこから感じ取れる「幸せの総量」は人によって大きく異なります。
その違いを生むのが、「幸せの感度」なのではないかと考えています。
どれだけお金を使っていても満足できない人もいれば、限られた中でも十分に満足している人もいます。
生活水準そのものよりも、それをどう受け取るかによって、感じ方は大きく変わります。
そう考えると、「NISA貧乏」という言葉で一括りにされる状態も、必ずしも不幸とは限りません。
本人が納得し、その生活に満足しており、かつ無理のない形で続けられているのであれば、それは一つのバランスの取り方とも言えます。
一方で、「NISA貧乏」を問題視する側の視点にも、少し気になる点があります。
極端な例は別として、他人の生活感に対して「そんな生活に幸せはない」「幸せの先送りだ」といった反応をみかけます。
こうした見方は、無意識のうちに「幸せの感度」が鈍くなっていたり、可能性の視野が狭まってしまっている状態とも言えるのではないでしょうか。
自己肯定のために他人を否定することは、結果として幸せの感度を下げ、本来見つけられるはずの可能性を見落としてしまいます。
そう考えると、少しもったいないようにも感じます。
重要なのは、他人と比べた豊かさではなく、自分にとって無理のない形で続けられ、納得できる生活であること。
その中で感じられる満足こそが、結果としての「豊かさ」に繋がっていくのだと思います。

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