セミリタイアという生き方を考えるうえで、そして「幸せの最大化」という人生の命題を見つめるうえでも、“死をどう捉えるか”という視点は避けて通れません。
それは、私の価値観の根にある部分であり、セミリタイアの考え方を支える大きな要素のひとつとして、記録しておきたいと思います。
人生の“終わり”はわからないという前提
セミリタイアという生き方を考えるとき、どうしても切り離せない前提があります。
それは、人生の“終わりがいつか”わからない、ということです。
多くの人が定年まで働き続けるのは、経済的な事情だけでなく、人生の終わりがいつ訪れるのかを誰も知らないからだと思います。
未来の不確実さに備えるという意味では、ごく自然な行動です。
一方で、セミリタイアを目指す人たちは、少なからず“人生の終わり”について考えるのではないでしょうか。
その見立ての違いが、セミリタイアに必要な資産やタイミングの判断に大きく影響しているのだと思います。
「死を恐れない」という立ち位置
私は10代の頃から、ずっと心の中にあるテーマとして、「死」というものについて考え続けてきました。
だからこそ、私にとって死は、恐れる対象ではありません。
忌避すべきものでも、避けたいものでもない。
ただ静かに受け入れるべき、“生の一部”として存在しています。
ピアノなどの楽譜の最後には、楽曲の終わりを示す終止線が引かれています。
終止線の無い楽譜は未完成のままであり、人生における「死」は、その終止線のような役割を持つのだと考えています。
死が人の手から離れていくという違和感
むしろ最近では、医療の進歩によって死が人の手から遠ざかり、自然な流れとしての“終わり”が徐々に失われつつあることに、不安を覚えます。
死を先延ばしにすることだけが、本当に“生の延長”と言えるのだろうか——そんな疑問も抱くようになりました。
だからこそ、最期の瞬間は、自分の意思のもとにありたいと考えています。
人生をどう生きるかだけでなく、どう終わるかも、自分の手で設計したいのです。
もちろん、制度上の制約はあります。
それでも、よく考え、選択の自由をできるかぎり活用することで、少しでも自然な流れに沿った生の終え方を目指せるのではないかと思います。
人生を希釈してしまう可能性
長く生きることは、もちろん悪いことではありません。
時間が増えれば、それだけ経験や出会いも増えるでしょう。
けれど、そこに“幸福の濃度”という視点を重ねると、長寿が必ずしも良いとは言い切れないように思います。
人生が極端に長くなると、年齢を重ねるにつれて、体の不調や行動の制約が増えていきます。
以前と同じことができなくなり、幸福を積み上げる量は減り、代わりに不幸(=苦労や不都合)の割合が少しずつ高まっていきます。
単純に“幸福の量”として見ても、時間当たりのコストパフォーマンスは徐々に低下していきます。
その結果、人生全体を振り返ったとき、幸福の総量は増えているようで、どこか“薄まって”感じてしまうのではないかと思います。
死を考えることは、生を大切にすること
死を考えるということは、決して暗い話題に沈み込むことではなく、生の意味をもう一度確かめ、いまを大切にするための行為だと思います。
“終わり”を意識するからこそ、いまという時間の輪郭が、よりくっきりと浮かび上がってきます。
そして、その意識があるからこそ、ひとつひとつの選択をおろそかにせず、より良い答えを導きだそうという意思が、より明確になるのだと思います。
限りある時間の中で、何を選び、どう生きていくか。
その問いこそが、セミリタイアという生き方の根底に流れているものだと感じます。
次の中編では、この「死を前提にした生の設計」という視点から、人生における“幸福の密度”について考えていきたいと思います。

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