セミリタイアと双帆の死生観〈中編〉―死を前提にした生の設計

考え方・背景

前編で触れたように、人生の終わりを意識すると、私たちは限りある時間の中で、何を大切に生きるのかを、より具体的に考えざるを得なくなります。

そうして人生を見つめると、“長く生きること”が必ずしも“幸福の増加”を意味しない、という事実に気づかされます。
長く生きるほど経験は増えますが、その一方で、時間が幸福を薄めてしまうこともあります。

では、人生の豊かさをどのように測ればいいのか。
その答えを探すうえで、私は「幸福を密度で捉える」という考え方に行き着きました。

“幸福の最大化”とは、単に幸福の合計を増やすことではなく、限られた時間の中で、どれだけ濃い幸福を感じ取れるかという問いです。
そしてその考え方は、セミリタイアという生き方の根底にもつながっています。

幸福を“合計”でなく“密度”で測る

幸福というものを、私は“合計値”ではなく“密度”で考えたいと思っています。
どれだけ多くの時間を生きたかではなく、その時間の中でどれだけの“濃さ”を感じ取れたか。

それこそが、人生の質を決める指標なのではないかと思います。

たとえ短い時間であっても、心が満ちる瞬間が積み重なっていれば、その人生は十分に豊かだと感じられるはずです。
逆に、長く生きても、日々の感情が淡く、何も残らないまま流れていくなら、時間の総量はあっても、幸福の密度は低くなってしまいます。

“幸福の最大化”とは、単に幸福を積み上げ続けることではありません。
不幸や苦労を含めたうえで、人生全体の密度を最も豊かに感じられる形を探すこと。
そのバランスをどう取るかが、私にとっての人生設計の軸になっています。

人生の評価は、死の瞬間にしか下せない

人生の価値や意味は、途中経過では決まりません。
それは、最後の瞬間にしか確定しないものだと思います。

どれほど充実した日々を送っていても、あるいは苦しい時期が続いていても、そのすべては“途中”の出来事にすぎません。
最期の瞬間に「これでよかった」と思えるかどうか——それが、人生という物語の評価を決めるただ一つの基準だと思います。

生きている限り、幸福も不幸も入れ替わり続けます。
昨日の幸福が、今日には不安に変わることもあります。
だからこそ、途中で人生を評価しようとしても、その意味は常に流動的で、確かな形を持てません。

死を迎えた瞬間に、初めてその人の人生は一つの物語として“完結”します。
私が死を恐れないのは、それをもってようやく自分の人生を見届けられるから、かもしれません。

短寿リスクは想定しても意味がない

中には、突然訪れる死を不安に思う方もいるでしょう。
実際のところ、人生の長さは、自分の意志ではどうにもできません。

どれほど健康に気を配っても、思いがけない出来事ひとつで、あっけなく終わりが訪れることもあります。
だからといって、「短命かもしれない」と常に怯えながら生きるのは、本質的ではないと思います。

仮に寿命が短くても、その瞬間までの生き方が充実していれば、その人生は十分に“完結している”といえます。

私は自分にとっての“暫定的な寿命”を、ある程度の目安として設定しています。
それは、死期を決めるというより、限りを意識して生を設計するための枠組みです。
その枠があるからこそ、いまという時間の使い方を、より明確に選ぶことができます。

短寿を恐れるよりも、後悔のない選択を積み重ねていくこと。
その方が、よほど現実的で誠実な生き方だと思います。

セミリタイア計画への反映

私は、人生の長さよりも、その中で感じられる幸福の“密度”を重視しています。
そのため、リタイア後の資産設計では、短命や極端に長く生きる前提を置かず、ある程度の枠の中で、自分が納得できる形を描くようにしています。

もちろん、これは数理的な最適解ではありません。
けれど、自分の死生観と整合の取れた計画であることが、心の安定につながっていると感じます。

死を恐れず、短寿を恐れず、その時々で最善を選びながら人生を設計する。
その前提があることで、限られた時間をどう生きるかという選択が、より現実的で、そして穏やかなものになっていくように思います。

そしてこの考え方は、私のセミリタイア計画にも深く関わっています。
“長く働き続ける安心”ではなく、“限られた時間をどう使うか”という自由を選ぶこと。
それが、私が描くセミリタイア計画の基盤になっています。

次の後編では、「死を受け入れるという自由」について、もう少し具体的に、私自身の考えを記していきたいと思います。

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