幸せの最大化と、静かな自己矛盾

考え方・背景

人生の目的とは、何でしょうか。
大げさなことを掲げる必要はありませんが、誰でも、ふとした瞬間に考えることはあるのではないかと思います。

今回は、私にとっての人生の目的と、その中で感じている矛盾について記しておこうと思います。

幸せの最大化

私の人生の目的は、「幸せの最大化」にあります。
そして、そのための命題として、「他人の幸せを完全に共有することは可能なのか」という問いがあります。

ここでいう“幸せの最大化”とは、社会全体の幸福や平均的な満足度ではなく、あくまで私ひとりの「幸せの総量」を指しています。
限られた時間の中で、どれだけ多く、深く、幸せを感じ取れるか。
それを人生の軸として考えています。

私が他人の幸せを願うとき、それは単に「他人のため」ではありません。
他人の幸せを完全に共有できたなら、その瞬間に自分の幸福の限界を超えられるのではないか――
そうした仮定を置いています。

ただし、誤解のないように言えば、私は「自分のために他人を幸せにしている」わけではありません。
自分の愛する人たちには、純粋に幸せでいてほしいと心から願っています。

その上で、もしその幸せを自分の中でも感じ取ることができたなら、それこそが「幸せの最大化」に近づく道だと考えています。

他者を含めた瞬間に生まれる矛盾

誰かの幸せを願い、それを自分の幸せとして感じ取れる瞬間があります。
妻や家族が笑っているとき、その喜びが自分の中にも静かに広がっていく。
そのとき確かに、自分ひとりでは届かない満足を感じます。

けれど同時に、他人の幸せに関わるということは、自分の時間や労力をそこに費やすということでもあります。
相手を思うほど、自分の自由な時間は減っていく。
幸せを分かち合おうとするほど、自分の使える「幸せの資源」を差し出していくような感覚になることがあります。

私はこの状態を、“静かな自己矛盾”と呼んでいます。
誰かの幸せを支えたい自分と、自分の時間を守りたい自分。
どちらも間違っていないのに、同時には満たせない。

それでも、どちらか一方を切り捨てることはできません。
この矛盾こそが、人と関わりながら生きることの現実であり、同時に、幸せという概念の奥深さでもあるのだと思います。

独り身との対比

セミリタイアを考えるとき、自由な時間を増やすことは、幸せの最大化に直結するように思えます。
働く時間を減らし、自分のために使える時間を増やす。
一見すると、それは効率的に幸福を得る方法のように見えます。

もし独り身であれば、生活コストも小さく、必要な資産も少なくて済むでしょう。
行動の自由も大きく、セミリタイアという目標には早く到達できる。
自分の幸せの最大化を考える上では、合理的な形です。

一方で、家族を持つということは、生活にかかるお金や時間、気配りのすべてが増えることを意味します。
セミリタイアの観点から見れば、それは“幸せの非効率化”のように映るかもしれません。

しかし、その非効率の中にこそ、一人では得られない充足があります。
他人の幸せに関わり、自分の時間を差し出すことで、結果として“自分の幸せの総量”が増える瞬間があるのです。

幸せの最大化を目指すとき、効率だけを追えば早く辿り着けるかもしれません。
しかし、それで辿り着くのは限界の範囲内の幸福です。
私は“非効率の価値”と、それによる”限界を突破できる可能性”を信じたいと思っています。

不完全であることの可能性

人は、自分を大切にしながら、誰かの幸せにも関わって生きています。
限られた時間を配分しなければならず、完全には両立しません。
その間で揺れながら、それでも日々を選び取っていきます。

私の目指す幸せのためには、その矛盾を抱えながら生きることになります。
すべてを効率化することも、すべてを他人に委ねることもできない。
その中間にある不完全さを受け入れたとき、ようやく「他人の幸せを完全共有すること」に近づけるような気がします。

不完全であるからこそ、その中に、限界を超えるための鍵があるのだと思います。

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