子どものころ、父に言われた言葉があります。
「人は人生の中で、全力で本気を出すタイミングが三回ある。」
正確な言葉はもう覚えていませんが、そんな意味だったと思います。
そのときの私は、「生きている間に三回くらい山場があるんだな」と感じたくらいでした。
けれど、その言葉は少なからず私の記憶に残り、どこか私の思考や価値観の一端を形づくっているように感じます。
“全力で本気を出す”というのは、ただ努力するとか、人より頑張っているというよりも、心の底から何かに向かって突き進むようなことなのかもしれません。
今考える私なりの解釈をしつつ、少し過去を振り返ってみたいと思います。
“全力で本気を出す”とは何か
あらためて考えると、“全力で本気を出す”というのは、そう簡単にできることではないと思います。
もっとも、“全力で本気”という言葉に、明確な定義があるわけではありません。
それは意識して行うもの、あるいは行えるものではなくて、周りの目や損得を超えて、ただ真っすぐに向かっていける瞬間のことかもしれません。
また、その瞬間には気づかなくても、あとから思い返したときに、確かにあれは全力で、本気を出していた——そう感じられるもの。
それこそが、“全力の本気”と呼べるものなのかもしれません。
私にとっては、この“損得を超える”というところがポイントになるように感じます。
基本的には合理的に物事を考えるタイプで、無駄なことはしたくありませんし、納得できないことにもあまり力を注ぎません。
コスト(時間や労力)をかけて100点満点を目指すより、80〜90点をできるだけ効率よくこなすほうが性に合っています。
他者からの評価を求めることもなく、自分が納得できればそれで十分というスタンスです。
だからこそ、その自分が“損得を超えて動く瞬間”には、明確な意味があるのだと思います。
自分にとっての三回を振り返る
自分のこれまでを振り返ってみると、「全力で本気を出した」と言える瞬間は、確かにあったように思います。
一度目は、高校時代の部活動です。
当時はバスケ部で、日々の練習は思い出したくないくらい大変でしたが、ただがむしゃらに頑張っていました。
決して強い高校ではありませんでしたが、最後の試合では、自分の持てる力をすべて出し切りたいという一心でプレーした記憶が、今でも鮮明に残っています。
二度目は、結婚を意識したときです。
人とまともに会話をすることが苦手で、知り合いの女性の連絡先すらひとつもなかった私が、突如人生の命題を掲げ、無謀にも“結婚を志す”という暴挙に出ました。
二度と再現できないであろう軌跡を引き起こすほどに、あのときの私は、本気だったのだと思います。
もちろん、そんな奇人の行動と考えを受け止め、理解してくれた妻のおかげでもあります。
そして、残りの一回はまだ訪れていないように感じます。
セミリタイアは、残りの一回となるのか?
では、今取り組んでいるセミリタイア計画は、残りの一回となるのだろうか。
単純に前の二回と比べると、正直なところ、少し違う気がします。
“全力で本気”という言葉には、どこか熱く、瞬間的な印象があります。
それに対して、セミリタイアの計画は、もっと静かで、長い時間をかけて形にしていくものです。
焦りや勢いではなく、冷静さと現実感の中で積み上げていく作業に近い。
そう考えると、「全力」という言葉とは少し距離があるように感じます。
ただ、“本気”という点でいえば、確かにそうなのかもしれません。
セミリタイアを考えるというのは、自分の価値観やこれからの人生の過ごし方を、深く見つめ直す行為です。
そして、それを長い時間をかけて実現しようとする姿勢には、短期間の熱量とは違う種類の“本気”が宿っているように思います。
もし過去の二回が、短い期間に全力で走り抜けた“本気”だったとするなら、このセミリタイア計画は、残りの人生をかけて歩み続ける“本気”なのかもしれません。
すぐに結果が出るわけではないけれど、日々の積み重ねが、ゆっくりと形を作っていくような——
そんな長いスパンでの“全力”があってもいいのだと思います。
残りの一回を信じて
私の人生は、まだ半分手前にあります。
父が言っていた「人は人生の中で、全力で本気を出すタイミングが三回ある」という言葉。
そのうちの二回はすでに通り過ぎたように思いますが、最後の一回は、まだどこかで待っているのかもしれません。
もしかしたら、それはセミリタイアという形で静かに続いていくものなのかもしれませんし、あるいは、まったく別の出来事として突然訪れるものかもしれません。
いずれにしても、その瞬間を恐れることなく、前向きな気持ちで迎えられるようにありたいと思います。
これから先、どんな形であれ、もう一度“全力の本気”に出会えることを信じて、今日も静かに前へ進んでいきたいと思います。
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