人を信じるべきか、それとも疑うべきか。
今回、私が考えたいのは、極端な状況の話ではありません。
日常生活の中で、私たちはどんな前提で他人と関わっているのか、ということです。
私はどちらかといえば、人付き合いにおいてドライなほうだと思います。
人はまず自分の利のために動く。
そう考えています。
それは、他人を信用していないという意味ではありません。
むしろ逆で、その前提に立っているからこそ、適切な距離感、一定の判断基準に基づいて人との関係性を保てます。
性悪説の上に立つからこそ、成立する性善説がある。
今回は、そんな少しひねくれた人間観について整理してみたいと思います。
人はまず自分のために動く
私たちは、日々さまざまな選択をしています。
仕事の進め方、時間の使い方、人との関わり方。
その多くは、突き詰めれば自分の利に基づいているのではないかと思います。
より評価されたい。
損はしたくない。
安心したい。
心地よく過ごしたい。
動機の形は違っても、根底にあるのは自分の利益や安心感です。
他人も同じだと考えています。
誰かが行動するとき、その中心にあるのは、その人自身の利です。
必ずしも”私”の利ではありません。
そう考えると、人間関係において過度な期待を抱かずに済みます。
「なぜ自分のために動いてくれないのか」と失望することも減ります。
もちろん、冷たく突き放したいわけではありません。
ただ、他人は”私”の利益のために存在しているわけではない、という構造を受け入れておくだけです。
その前提に立つことで、人付き合いはむしろ安定します。
理想を押しつけず、現実を否定せず、静かに距離を測ることができるようになります。
利は対立するとは限らない
人はまずその人自身のために動く。
そう考えると、人間関係はどこか打算的なもののようにも見えてしまいます。
けれど、利は必ずしも対立するとは限りません。
会社であれば、自分が成果を出したいという利と、組織が利益を上げたいという利が重なることがあります。
家族であれば、自分が安心して暮らしたいという思いと、相手も穏やかに過ごしたいという思いが重なる場面があります。
そこには、どちらかが一方的に犠牲になる構図ではなく、利の一致があります。
私は、その一致が生まれている状況を「性善説が成立している状態」だと捉えています。
人が善だから協力するのではなく、利が重なっているから自然と協力が生まれる。
そう考えると、善意もまた構造のひとつに見えてきます。
もちろん、利がずれることもあります。
そのとき関係が揺らぐのも、ある意味では自然なことです。
悲観する必要もありませんし、過度に理想化する必要もありません。
ただ、お互いの利が重なる場所を見つけられるかどうか。
それが関係の安定を左右しているのだと思います。
悲観でも盲信でもない立ち位置
性悪説だけで人を見ると、世界はどこか冷たく見えてしまいます。
誰もが自分自身のために動いているのなら、信頼など成り立たないのではないか、と。
一方で、性善説だけを前提にすると、現実とのずれに傷つくことがあります。
「きっと分かってくれるはずだ」という期待が外れたとき、その落差は小さくありません。
だから私は、その中間に立っているのだと思います。
人はまず自分のために動く。
その前提を受け入れる。
そのうえで、利が一致する場所を探す。
一致しているあいだは、自然と協力が生まれるし、信頼も機能する。
無理に理想を掲げる必要はありません。
かといって、すべてを疑って孤立する必要もありません。
人間関係を道徳や善悪で判断するのではなく、構造として捉える。
そうすることで、必要以上に期待せず、必要以上に失望もしない。
ドライに見えるかもしれませんが、私にとってはそのほうが穏やかです。
性悪説の上に立っているからこそ、成立する性善説。
それが、いまのところ私の人付き合いの基本姿勢です。
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