幸せの出発点は? – 急がば回れの幸福論 – | 50歳セミリタイアを志向する轍録(わだちろく)

幸せの出発点は? – 急がば回れの幸福論 –

考え方・背景

先日、イタリアに出張してきました。
イタリア人たちと話をしている中で、興味深い価値観に触れる機会がありました。

誰かの幸せを願うとき、何かを無理に我慢することは自分自身が楽しめなくなることであり、そんな状態の人間が周りの人を楽しませたり、幸せにしたりできない。
そんな考え方です。

例えば、結婚して家庭を持っている私の場合、当然ながら「家族には幸せであってほしい」と願っています。
ではこの時、自分を含めてまず最初に幸せになるべきなのは、「自分」なのか、それとも「家族」なのか。

ここでは話をシンプルにするために、子どもはいったん脇に置いて、「私と妻の2人」に限定してこの命題を掘り下げてみたいと思います。

相手の幸せを優先し、自分を犠牲にするケース 

直感的に考えれば、私が妻に幸せになってほしいと願うなら、まず先に幸せになるべきは妻であるはずです。
これは非常に自然な思考の流れです。

では、その命題を実現するために「自分自身を犠牲にすること」は果たして成立するのでしょうか。
仕事がどれほど辛くても家庭のために耐え抜く、あるいは自分のやりたいことを全て我慢して家族に捧げるといったケースです。

結論から言えば、自分への負荷が妻に全く影響せず、あるいは妻にそれを感じさせないレベルであれば、一定程度は成り立つかもしれません。
しかし、このアプローチには非常に大きなリスクが潜んでいると私は考えます。

まず第一に、自分自身の限界を超えてしまった場合です。
無理を重ねた末に心身を病んでしまったり、つい苛立ちが積もって妻に当たってしまうという事態は容易に想像できます。

第二に、自分自身に精神的なゆとりがない状況では、日常の些細なやり取りさえ受け止めきれなくなります。
本来なら流せるはずの些細な意見の食い違いが、結果として言い争いや大きな喧嘩に発展してしまいかねません。
自分に余力がなければ、外的因子に対する防波堤としての役割も果たせなくなります。

そして第三に、何よりも「持続可能性」に乏しいという点です。
これから先、まだ半世紀近くを共に過ごすことを考えると、この「自己犠牲」の上に成り立つ幸せは、あまりにも不安定で脆いものだと言わざるを得ません。

自分の幸せを先に考えるケース 

次に、先ほどとは真逆の「まず自分が幸せになること」を優先するケースを想像してみます。

「妻を幸せにする」という第一条件から考えると、一見すると目的が逸れて、利己的にすら思えるアプローチかもしれません。
しかし、現実はどうか。

まず、自分自身の心にゆとりがあることで、結果的に妻への負担を大きく減らすことができます。
不要な愚痴が少なくなりますし、何か意見の食い違いがあっても、こちらが譲歩して受け止めるだけの度量が生まれます。
つまり、家庭内におけるマイナス因子の発生を事前に回避できます。

また、人が醸し出す雰囲気やオーラの影響も無視できません。
不機嫌そうな人や何か辛そうな人と一緒に過ごすよりも、機嫌よく、楽しそうに過ごしている人と一緒にいる方が、周りも自然と幸せを感じられるのは明らかです。

最後に、お互いに支え合う存在だからこそ、相手が大変な状況にあれば当然心配もしますし、そんな状態の中で自分だけが心から幸せを感じることは難しい、という相互関係もあります。

そうやって考えていくと、「自分を優先する」という行為は、決して身勝手なことではなく、むしろ相手を大切にするための前提条件のように思えます。

まとめ – 急がば回れの幸福論 – 

世の中には、「自分が幸せならそれで満足だ」と、周囲との関係を切り離して考えられる人もいるかもしれません。

しかし、少なくとも私自身の環境においては、まず自分自身が幸せで、楽しく過ごしていること。
それによって心に確かな余裕が生まれ、その余裕を持って周囲に接することができるようになること。
これこそが、最終的に周りを幸せにする一番の鍵のように思えます。

一見すると、自分をまず満たすことは「大切な人を幸せにする」という目的地に対して回り道をしているようにも感じられます。
しかし、まさに「急がば回れ」の言葉通り、このアプローチこそがより確実で、かつ持続可能な方法なのではないかと、イタリアでの会話を通じて強く思わされました。

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