セミリタイアと社会との距離感

考え方・背景

セミリタイアを考えるとき、「社会とのつながりが薄れてしまうのでは?」という意見を目にします。

会社という組織から離れることで、人との関わりが減り、孤独になるのではないか。
名刺や肩書きが無くなった途端、自分の価値を証明できなくなるのではないか。
そんな不安が語られることは、少なくありません。

しかし、よく考えてみると、“社会との距離感”は、セミリタイアで初めて生じるものではなく、今どの距離で生きているかによって大きく異なるのではないか、と思います。

今回は、私自身が持っている価値観と比較しながら、セミリタイアと社会との距離感について整理してみようと思います。

一般的に語られる懸念

セミリタイアを検討するとき、社会との距離が広がることに不安を感じる人は少なくありません。
特に次のような懸念がよく挙げられます。

  • 孤独になるのではないか
  • 人との会話が減り、思考や感情が鈍くなるのではないか
  • 肩書きを失い、自分の価値がわからなくなるのでは
  • 何もしない時間に罪悪感や焦りを感じるのでは
  • 他人と関わるきっかけがなくなり、世界が狭くなるのでは

こうした懸念を目にするたびに、「多くの人にとっては、社会との距離は“失う対象”なのだ」ということを感じます。

しかし私自身は、それらの懸念に対して少し違う感覚を持っています。
次に、“自分の場合”という視点で、照らし合わせてみたいと思います。

私と社会の距離感

結論から言えば、私自身は社会との距離に大きな不安を感じていません。
というのも、セミリタイアをして距離が変化するのではなく、もともとその距離で生きてきたという感覚があるためです。

仕事においては、業務上の関わりは当然あります。
しかし、それ以外で人と積極的に関わることはほとんどありません。
忘年会などの行事を除けば、会社の人と食事をしたり、休日に会うといった機会も、ほぼありません。
一人でいることが苦ではなく、それによる孤独も感じていません。

人との会話については、家族との会話で十分に満たされています。
そもそも私の思考の軸は、“他人との対話”ではなく“自分との対話” にあります。
そのため、誰かと話す機会が減ったとしても、思考や感情が萎縮するような不安はありません。

肩書きについても同様です。
業務以外の場面で使った記憶はほとんどありませんし、肩書きがあるから安心する、という感覚もありません。
“自分の価値”は、肩書きや役割によって証明されるものではないように思っています。

何もしない時間への罪悪感についても、今の時点でほとんど不安はありません。
というより、“やりたいことが山ほどある” という感覚のほうが強く、自由な時間はいくらあっても足りないと思っています。

社会との距離は「変化」ではなく「延長線上」

ここまで整理してみると、私のセミリタイアは「社会から離れること」ではなく、「今の距離感の延長線を生きること」に近いのだと感じます。

社会との距離を不安に感じる人たちは、おそらくまったく別の価値観や世界観の中で生きているのだろうと思います。
そう考えると、その感覚にも少しだけ興味が湧いてきます。
単に未知の感覚として、知ってみたいという好奇心です。

ただ一方で、自分の考えを客観的に眺めると、“よくこの価値観で社会に馴染んて生きてこられたな”という気持ちも正直あります。
とはいえ、会社での役割も日々のコミュニケーションも、一定のバランスで保てているようなので、その点については“とりあえず良し”としておきたいと思います。

まとめ

私の場合、もともと社会と一定の距離を置いているため、セミリタイアによって大きな変化はないように感じます。
孤独になるわけでも、社会と断絶するわけでもなく、むしろ今の延長線上で静かに暮らしていく、というイメージが自然に思い浮かびます。

セミリタイアとは、“社会から離れる行為”ではなく、自分にとって心地よい距離を選び直す行為なのかもしれません。

その距離が近い人もいれば、少し離れていた方が安らげる人もいます。
どれが正解ということではなく、それぞれの価値観に沿って距離を選べることこそ、ひとつの自由であるように思います。

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