自由であることの責任 | 50歳セミリタイアを志向する轍録(わだちろく)

自由であることの責任

考え方・背景

多くの人がセミリタイアやFIREを目指す理由として、「自由な時間を得たい」というものがあります。
私自身もそのことが、セミリタイアを考えている大きな理由のひとつです。

今回は、その「自由」という言葉について少し違う角度から考えてみようと思います。

自由には魅力があります。

しかし同時に、自由だからこそ発生する責任も存在します。

今回はその点について整理してみます。

自由の裏側には責任がある

自由という言葉を聞くと、好きなことができる状態をイメージすることが多いように思います。
ただ私は、自由とはそれだけではないと考えています。

自由には魅力がありますが、その裏側には責任も存在します。

例えば学生時代には校則があります。

服装や髪型、持ち物などについて様々なルールがあり、自由が制限されているようにも見えます。
しかし一方で、そのルールの範囲内であれば行動は認められており、学校生活における責任の一部は学校や保護者が負っています。

また、勉強や部活動なども、ある程度は学校によって方向性が示されます。
自分で全てを決める必要はありません。

少し極端な表現かもしれませんが、それは「思考しない自由」を得ている状態とも言えるのではないかと思います。

これは会社員にも似た部分があります。

会社には就業規則があり、業務内容や勤務時間にも一定の制約があります。
その代わり、何をするべきかはある程度会社や上司が決めてくれます。

もちろん責任の全てを負ってもらえるわけではありませんが、自分の行動の方向性を考える負担は小さくなります。

このように考えると、自由と制約は単純な反対語ではなく、責任をどこが負うかという違いなのかもしれません。

セミリタイア後は自分が責任者になる

では、これをセミリタイアに置き換えて考えてみます。

セミリタイア後には、学校や会社のように自分へ指示を出してくれる存在はいません。

何時に起きるのか。
何を学ぶのか。
誰と会うのか。
今日は何をするのか。

そういったことを、自分自身で決める必要があります。

自由な時間が増えるという表現はよく使われますが、見方を変えれば、自分の行動を決める責任が全て自分に戻ってくる状態とも言えます。

会社員であれば、仕事の内容や優先順位について、ある程度は会社や上司が決めてくれます。
学生であれば、授業や行事によって日々の予定が組まれています。

しかしセミリタイア後は、そのような枠組みがありません。

何をするかだけではなく、何をしないかまで含めて自分で決める必要があります。

私は、セミリタイアで得られる自由とは、単に時間が増えることではなく、自分自身が自分の責任者になることなのではないかと思っています。

つまり、自由を手に入れるということは、自由な時間を埋める責任も同時に引き受けるということになります。

自由であることの責任を負えるか

セミリタイアやFIREを目指す人の多くは、「自由になりたい」という思いを持っているのではないかと思います。

もちろん私自身もそのひとりです。

ただ、自由という言葉の魅力に目が向きやすい一方で、その自由を管理する責任については、あまり語られないようにも感じています。

周囲の期待や会社からの指示、社会の流れによって決められていた行動を、自分自身で決めなければならなくなったとき、人によっては大きな負担になることもあるのではないでしょうか。

何をするかを決めることが得意な人もいれば、誰かが示してくれた方向に沿って進む方が心地良い人もいます。

もし後者の傾向が強いのであれば、自由な時間そのものではなく、「決め続けなければならない状態」に疲れてしまうこともあるのかもしれません。

セミリタイア後に暇を感じたり、再び組織に所属したくなったりする理由のひとつには、そのような側面もあるように思います。

セミリタイア適性とは資産額や生活費だけで決まるものではないということです。

自由であることの責任を負えるかどうか。

それもまた、見落とされがちなセミリタイア適性のひとつであり、自由を求めることと、自由を扱えることは必ずしも同じではないのかもしれません。 

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